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インドネシア音楽の歩み 1950~2000@Tembang.com

2006. . 09
他の事を書こうと調べものをしていたら、興味深い記事にあたりました。で、備忘もかねて取り急ぎ要点だけ。 ほぼラフなメモ書き状態で手抜きも良いとこなんすが、元々関係無い事書こうとしてたものでご容赦(笑)。
バッチリ読みたい方は元記事をどうぞ。

⇒tembang.com(Arsip)

Perjalanan Musik Indonesia 1950-2000
記録という点では全然弱いインドネシア音楽の歴史、これをIIMS(Institute Indonesia Music Study)とTembang .comのコラボで解き明かそうと言う試みだそうです。 現在Part5までアップデートされててざっと読む限りではポップミュージック/音楽産業を中心に書かれています。

***


以下抜粋。
⇒Perjalanan Musik Indonesia 1950-2000[1]
まずはインドネシアの音楽、って何?という素朴な疑問からスタート。 「・・・クロンチョンだってポルトガル音楽がルーツだし、ガンバンクロモンは華人が始祖だし、ポップミュージックはどうするの?ディープ・パープルやレッドツェッペリン、ドリームシアターの影響なんてバリバリだし。昔は西欧スタイルそっくりなのがカッコよかったわけだし・・・云々。」
(別に無理に定義をしようとしているわけではなさそうで、要はインドネシアの音楽と一口で言うのは容易では無いとかそんな感じ)

⇒Perjalanan Musik Indonesia 1950-2000[2]
1950年代、音楽産業の始まりはSurakartaのLokanataとJakartaのIramaから。 Iramaは娯楽音楽=ポップミュージックの出発点。ラフマット・カルトノ、ニン・レスマナ、パティーシスターズ等らがジャカルタ中央メンテン地区の小さなスタジオでレコーディング。

⇒Perjalanan Musik Indonesia 1950-2000[3]
56年設立の国営会社Lokanataは1958年、インドネシア国営放送を通じて まずはガムランの「レコード盤」の販売を開始。グサン、ワルジーナ、ティティ・プスパ等を輩出。が、メディアのカセットテープへの移行期には経営問題でその名をきかなくなってしまう。 現在Lokanata音源のデジタル化プロジェクト進行中。でそうした音源を求めているのは海外の方々、・・・ってなんじゃらほい。
次、所謂レコーディング・スタジオのお話。
70年代初頭、ディック・タミミはレコーディングスタジオ「ディミタ」を設立。パンバース、クス・ブルソウダラ(クスプルス)、ダラ・プスピタなどを送り出し70年代前半、その名を馳せる。

⇒Perjalanan Musik Indonesia 1950-2000[4]
ディミタ・スタジオのユニークなエピソード。鉄道の側にあったため、レコーディングは列車の通る合間を狙って行われたとか。 この辺りのエピソードはBens Leoの http://www.rileks.com/ に詳しくあるとのこと。
(Bens LeoってNews Musikやってた人でしたっけ?)
で、貸しスタジオなど無かった当時のレコーディング時間はミュージシャン次第。現在なら7~8時間で済むところを随分時間かかったとか。 マス・ヨスやディック・タミミは録音スタジオのパイオニアだったが一方で現Sony BMGの執行役員ヤン・ジュハナもこのころ出てきた人。1973年エンジェル・レコード設立、テープレコーダーと曲名印字のタイプライターだけを元手に1週間に5~10本のカセットをリリースしてた。なんでもありのこの時代、インドネシアベルヌ条約非加盟だったこともありウハウハ。Aquarius Recordsは年間200万枚の洋楽を売りさばく。

次、プロデューサーのお話。伝説的プロデューサとして知られるメトロポリタン・スタジオ(現MUSIKA)のYamin Wijaya(Amin Cengli)、Remakoのユージン・ティモシー。
ムジカは元々Aminのサイド・ビジネス。1960年にPasar BaruでEka Saptaの名でレコード店を始めると、Bing Selamet, Ireng Maulana, Enteng Tanamal, Idris Sardiといった若手ミュージシャン溜まり場となり、やがてこれがバンド「Eka Sapta」の結成へ。

⇒Perjalanan Musik Indonesia 1950-2000[5]
でそのEka Saptaが成功するとAminはいよいよ商業音楽の世界へ。設立したPT.Warung TinggiからはTitik Puspaがアルバムリリースしたり。でも機材がなくてRemacoから借りたり。で68年Eka SaptaメンバーとPT Metroplitan Studioを設立。Eka SaptaやBing Selmet、A Riantoらレコード盤販売で成功するが、新メディア「カセットテープ」が登場すると1971年Metropolitanはレコード盤の製造を中止、株式を全てAminに譲渡しこれがMusika Studioの始まり。
次第に傾くRemacoをよそに、Musikaはどんどん勢いを増す。Musikaは友人・兄弟などの人間的な繋がりをベースにしているのが強み。従って契約も長期になり例えばChrisyeは1978年の「Sabda Alam」から1999年ののBadai Pasti Berlaluまで80%の作品を同社からリリース。
Chrisyeはそれ以前にGuruh GipsyのレコーディングをTri Angkasa Studioで行っているが、これがその後の「Badai Pasti Berlalu」やYockie Suryoprayogoとの共演「Jurang Pemisah」といったMusikaの記念碑的作品の胎動に。

RemacoはBimbo,D'Lloyds、Mercy'sらを登場させ、後Koes Plusも移籍。一時はインドネシア最大のレコード会社となる。(シンガポールのプリント会社を使ってた云々のところは良く判らん)


つづく。
うー、ホントに酷いエントリー(汗)。というかJan DJuhanaってそんなに昔からがんばってたんですね。 取り敢えずは続きをお楽しみに。あ、それから訳おかしいところありましたら指摘願います。

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